アトピー性皮膚炎のことなら株式会社日本オムバス ホーム Dr.木田のブログ > 外国文化の摂取。何か、大切な物が抜け落ちる。

外国文化の摂取。何か、大切な物が抜け落ちる。

【2008/05/10】

外国文化の摂取と云うのは、どの分野でもむずかしい。どうしても手抜かりが生じがちだ。

たとえばアメリカからプロ野球を移入する。ずいぶんよく習ったのだが、コミショナーに権威を与えることは学びそこねた。そのせいで、何かことが起るといつも話がもつれる。また、大リーグの野球は地域共同体によって支えられていて、球場は所有者である市や州がうんと安く貸してくれるから球団経営が助かる。これも取り入れられなかった。二大政党制にしてもそうだ。
英米ふうの仕組みにすれば万事うまくゆくと言って小選挙区制にして、めでたく二大政党になったとたん、「ネジレ」はよくないから「大連立」、なんて騒ぐ、どうやら英米政治の実際を誰も調べてなかったらしい。「読み込んでこその妙味」「書評文化守るために、丸谷才一、」(朝日新聞2008年3月15日  p29) 

というのは前書きで、ここから書評の話になる。福沢諭吉「文明論之概略」は、一八七五年(明治八年)の初版は和紙木版六冊本で、翌々年、洋紙活版刷り一冊本が刊行された。これで見当をつければ、われわれがいま手にしている形の本は一八七●年代に英米から渡来したわけだ。イギリスでは十八世紀後半に書評がはじまり、十九世紀になると鉄道旅行の発達につれていよいよ盛んになったのだが、このとき日本人は書評という付き物は受け入れなかった。この書評不在の出版文化は長くつづく。1930年代の朝日新聞は、毎週一回、二分の一ページか三分の一ページの書評欄を設け、小林秀雄その他一流の筆者を擁していたが、中身は言うに価しないものだった。日本の書評が本式にはじまるのは一九五一年(昭和二十六年)「週間朝日」の「週間図書館」からで、当時のもう一つの国民雑誌「文芸春秋」が書評を扱うのは、その四半世紀後の「鼎談書評」から。つまり洋本と言う形態の輸入後百年にしてようやく書評文化が定着したことになる。それから三十年たった今、いちおうの新聞雑誌はみな、かなり充実した書評欄を持つようになった。(中略)


書評者が本を手に取ってから原稿を書き上げるまで、かなりの日数を要するのは当たり前である。わたしの体験では大著を讀むには一週間はかかるし、讀み終えて二十四時間たってから書き出すのでないと、どうもうまくゆかないようだ。一冊の本という広大な世界とつきあうのは大変なことだし、その印象記をまとめるだけでも楽な話ではないのである。

読後感: 

同じことが「医学」についても言える。実際に体験したことだけ述べる。私(著者)は、大学(北大理学部1954年卒)で生物学(動物学科)を専攻して、「動物の中にヒトが入っていないこと」を知り「ヒトの生物学」を知る目的で「医学部の専門過程」(札幌医大1962年卒)に入りそこを出た。
医学部で教えるのは「医学」という<最大多数の、最大幸福を守る>「学問(体系)」だった。「医学教育」を仕切っているのは文部科学省である。患者さんの「病気」という「実学」を身につけるのは、「臨床医学」といって、医師の資格を持つものだけが体験で習うものだった。医学部を出ると国家試験(厚生労働省管轄)があって、それをとおると「医師」となる。

一方、「専門医師」となるために臨床医学を學ぶ必要がある。(一人前になるのに10年かかる)。医療制度(病院)を作りそれを支配しているのは厚生労働省(の役人)で、わが国は「国民皆保健」を作りそれを自慢している。老人が増えると「シルバープラン」、少子化が進むと「エンジェルプラン」。今や、夫婦当りの子ども「合計特殊出生率」は一人になった。役人は、「医療の現実」を調べないので実態を知らない。わが国は、「経済の法則」と「官僚制度」が「ヒトの生死」を左右している。

最近、「喜寿」を過ぎる年齢になった。老人が「自分の価値観だけ」で言うのも変だが、老人を体験したことのない「若者の感覚で」老人のことを決めるのも変だ。「何も知らないヒト」が、自分の意見を述べ、それを多数決できめるのが「民主主義」。 経済の法則だけで、政治や、医療が行われる。勉強すると知識が増える(そのとき、その代償に、何かを忘れる)<勉強すると馬鹿になる>。年を取ると、自分の一番大切なものから失われてくる。<分からぬことが、分かっただけでも、善しとしなければならない>「鈍感力」というヒト(渡辺淳一)もいる。そこに、「人間の関係」(五木寛之)だけがある。「自分を不幸にしているのは、自分の妄念である。」ともいう。