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「おしゃべり」という現代人の病気。

【2007/01/10】

人間が考えるために、「驚きと問い」つまり、自然に感動し、人間の無力を知ることが必要。

● ハイデッカーは、「人間は、自分がどういう存在であるか、常に納得、了解していかないと、生きられない存在だと考えていた。つまり、世界と個々人の間には、あらかじめ決められた絆もなければ、安定した秩序もなく、明確な定義もない。だから、人は、自分が誰であるか、どのような存在であるか、不断に己(自分)で決めなければならない「存在だ」と。

● ハイデッカーは、「存在と時間」の中で、<現代人のおしゃべりは、会話ではない。それは、暇つぶしであり、不安からの逃避であり、つまりは「存在忘却」の典型的な現れだ>、という。つまり、無意味なおしゃべりは、近代人の病理の典型的なものだ。/ おしゃべりというのは、不安や、何ともつかない無気味な不安感から逃れるため行為、ごまかしだ、とハイデッカーは考えた。「沈黙」や、「空虚」に堪えない、というのは、<不安に直面しないため>だ。

/「恐れ」というのは、対象を持つ感情で、例えば、犬が怖いとか、病気が怖いというような、対象を持っている。でも、「不安」というのは具体的な対象を持っていない。何とも思わないうちに、突然人は不安になり、何時の間にか不安から解放される。解放されると、誰もが振り返って「何でもない」という。つまり「ない」というのは、「無」と直面していることだ、という。/ 無が忍び込んでくるのが「不安」で、「無は存在と表裏の関係」にある。存在への驚きを失った文明人、存在を問うことをしなくなった文明人は、「無」にも、つまりは「不安」にも耐えることができない、というわけだ。

■ これを読んで、戦後の混乱期に政府の「愚民政策」を「3S(スポーツ・スクリーン・セックス)」と呼んでいたのを思い出した。テレビや新聞などの無意味な情報(おしゃべり)の氾濫は、政府の「愚民政策」。それを実行しているのは、<悪名高い>「官僚政治」「bureaucracy}、一群の特権的な官僚が権力を握って行う政治、または発達した官僚制による行政が支配的な政治。広辞苑)」それに、庶民が抵抗する方法は、だだ一つ、<情報の選択的利用>だ。

/ つまり、<無駄(無意味)な情報を排除し>、<意味のある(真実)の情報を選択>し、「選択した情報を利用」することしかない。これは、「ゲノムの遺伝子(DNA)」を設計図として、全ての「生命」と、宇宙を認識出来る「人間」を作った自然の「戦略戦術」であった。

● ハイデッカーは、「真理」についても、ギリシャ語を分析して、忘却と隠蔽を否定する意味がある。つまり、「隠されたものと、忘れ去られたものが、もう一度表れたもの」だと考え、ソクラテスやプラトンのような、現世を超越した理念=イデイアが、「真理の礎」でないと宣言した。つまり、悲劇「オイデプス王」で、王が実は、父を殺し、母を侵したことを顕現するのが「真理」であると。「存在に対して驚く」ということや、古代ギリシャ語に対する見識が、そのまま「哲学的破壊力」になっている。さらに、その影響下に発した、サルトルなどの「実存主義たち」は、かってないほどの、哲学の大衆化を実現した。

■ 「民主主義」は、「ギリシャ語の人民と権力を結合した語で、人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場。1.基本的人権、2.自由権、3.平等権、4.多数決原理、5.法治主義が主なる属性である。(広辞苑)」であるが、わが国には、4.5.があって、1.2.3.がない。「立憲君主制:憲法に従って行われる君主性。原則として君主の権力が議会に制限を受けるようになっている制度。制限君主制」(広辞苑)と言う意見もある。

● ハイデッカーにいわせると「技術、テクノロジーというのは、「存在忘却」の最たるものだという。鶏なり、何なり(生き物)を目にした時、その存在しているものに感動しないで、「食べられるといった機能」にのみ目を向ける、これが「テクノロジーの基本的な性格」だ。1950年代に、遺伝子工学の危険な側面を警告した。引用文献、「ハイデッカー」オバハンでもわかる「存在と時間」福田和也、<二十世紀最高の哲学書「存在と時間」ナチス党員だった過去もあるハイデーカーは人間をどう捉えていたの?>(新潮45, 9,:平成18.9.1.p219)>